「沈黙」についてのノート--ヴィトゲンシュタイン、G.スタイナー、石原吉郎の「沈黙」/N.K.
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ゴースト(無月野青馬) 
- ……とある蛙 
難しすぎてよく理解していませんが、
角川選書の「詩とは何か」のシンポジウムで田村隆一氏の現代詩は詩形を一篇一篇作らなければならないとの発言を受けて(フリーバースの問題)大岡信氏が自由詩の沈黙との関係に関して次のとおり述べています。近代的自我意識が詩歌をして集団の感情を歌い上げるものではないものとした。ここから必然的に詩歌は定型から自由になった。個人個人の複雑な感情を詩にせざるを得なくなり、象徴主義でかつフリーバースとせざるを得なくなった。…つまり芸術は形のないある世界を形にすることを目指すようになる。詩作とは形のない沈黙の世界に言葉を投げ込んである種の形を作ろうする試みとその結果と成らざるを得ない。しかも言葉は背後にある巨大な沈黙の、一角とも言えない一部が露呈したもので、しかも、大岡信氏の実感としては詩は露呈した瞬間、背後の沈黙と対立するものであるとしている。結局一篇の詩の感動は背後にある沈黙の大きさに左右される。としています。まだ十分理解できないので個人的には論評しませんが、何となく分かる気がします。ストレートに言葉にできない何かを作り出すのが詩であることは間違いないからです。



- 桐ヶ谷忍 
 
作者より:
れたすたれす様、ポイント、コメントありがとうございました。非人間的なものに対して
は、言葉の失敗の感覚を覚えるだけでなく、否の声を発する事も不可欠なことかと思いま
す。それは、非人間的な権力(というものがあるとして)に対する風刺もふくめて、支配
のシンタックス(というものがこれまたあるとして)に対する異議申し立てのシンタック
スを提示することになると考えています。「沈黙」を前に置きながら、これから自分も考
えて行きたいと思わされているところです。考えると言うよりは、詩を実際に編むことに
よって応える問いのように思います。あるいは政治的な行動(選挙に行くことから始まっ
て、様々な異議申し立てなど)に自ら関わって行くことでそれぞれが応えるべきものかと
思います。
>世の中の政治家や資本家達がつまらぬ言説を吐き続ける限り、詩人は沈黙を破り続けな
>ければならない羽目になる。それが歴史的な教訓なんだと思うんですがね

 やはり、失礼を承知で言ってしまえば、お互い考えている方向が違うことを感じます。
歴史的教訓という言い方をすれば、非人間的なことに対して言語が失敗したことがあるの
で、ことばで何か表現したいと思っている人間は、そのことを重く受け止めて、言葉の表
現につなげないわけにはいかないだろうというのが、自分の考えている歴史的教訓という
ことになるでしょう。(過度に簡略化しているとはおもいますが・・・)
 これまた失礼を承知で述べれば、自分がここでノートという簡単な形でも、論じようと
したことを、まるまるパスなさっているようなコメントだと感じる部分もあります。(ま
あ、それはそれで、意見としては承りますが)世の中の政治家とか資本家とか、抽象的な
いいかたをなさり、歴史的には政治家に命を奪われた人々がいるとか、金貸しが多いと言
われたユダヤ人(今の感覚でいえば、資本家ともいえるでしょう)を、ゲットーに集め、
収容所に送ったとかいう歴史的事実があるにもかかわらず、そのことから歴史的教訓をひ
きだそうとなさらないで、具体例もなしに単純に「つまらない言説をはきつづける」と主
観的な言葉をつなげて、そうする限り、詩人は沈黙を破り続けなければならない羽目にな
るというのが、どうして歴史的教訓になるのか、まったく別のことを考えていると思われ
る自分には分からないのです。誤解のないように付け加えますが、政治家にも良い人もい
れば、悪い人もいて、つまらない言説を述べるだけの政治家もいれば、歴史上には実際
に人々の命を奪った政治家もおり、資本家といっても非難して、富を他の人々と分かち合
うということだけを人々は考えず、歴史上は「ユダヤ教を信じている人たち」をただ意味
する人たちを、金貸しが多いということで、人々は(悪い意味の資本家の意味を「レッテ
ル」として貼り)、税金を取るだけでなく、ゲットーに集め、収容所に送りこんだりする
ことまでしてしまっているということが、実際あったのです。ただ、政治家や資本家とい
う人たちをあげれば、「つまらない言説」という主観を媒介にするだけで、非難すること
は認められるという価値観が素直に成り立たないこともある、そういう価値観には落とし
穴があると思われる時代から、歴史的教訓を学びたいとこのノートではいいたいのです。
 自分のここで論じようとしなかった方向で考えても、つまらない言説だと自分が思っ
たら、単純に政治的なコミットメントで批判するとかしたほうが、沈黙を破り続けなけれ
ばならない羽目になるよりも、実効性を伴うような気がします(G.スタイナーは、そ
の辺りのことをしっかり論じて、政治的な問題とか、意思表示をかろんじてはいません)
し、自分は批判は別に詩人の特権でもないのではないか、と思いますし、詩人(自称で
も)あってもなくても、選挙にいったり、意思表示をしたり、レジスタンスで戦ったりす
ればいいわけですし、実際そうであったと言うのが、あえて言えば歴史的教訓だとも思う
のですが。
 乱文をご寛恕下さい。私信で色々教えてくださったことに感謝します。

無月野 青馬様、お読みくださり、ありがとうございました。ポイントありがとうございました。 
---2012/08/10 15:23追記---
……とある蛙様、ポイント、コメントありがとうございました。自由詩と沈黙に関する大岡氏の言葉を教えていただきまして、ありがとうございます。石原吉郎の「沈黙」が大岡氏が述べた「沈黙」を手がかりにして、明らかになる部分もあるのだろうと考えさせられました。
---2012/08/11 22:06追記---
箱舟様、お読みくださり、ありがとうございました。ポイントありがとうございました。
桐ヶ谷忍様、お読みくださり、ありがとうございました。ポイントありがとうございました。 
 
---2012/08/23 22:12追記---

---2012/08/23 22:21追記---

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