詩は詩、書き手は書き手、なのかどうか/白井明大
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- プル式 
- 因子 
- 伊藤透雪 
-  
 
作者より:
書き手自身が詩をどのように位置づけ、それと関わろうとするか(このなかにたとえば、詩を批判されたときどのような態度でのぞむか、も含まれるかと思います)ということと、詩の主体(詩をもたらすもの)と書き手がイコールか否か(詩は詩、書き手は書き手、かどうか)という詩論とは、直接結びつくものではないだろうと考えています。

ただ、読み手の側から決定できることがらでもないだろうとも思います。

詩を批判されて傷つく理由は、その詩がじぶんにとり大切だからでしょうが、反面、批判をうけいれることもまた、じぶんの詩を大切にすることになる場合もあるでしょうから、おいそれと結論めいたことは言えません。
批評と批判というのも、かならずしも同じではないでしょう。

敬意をもって詩に対することをしたいと思います。

この論点をめぐるじぶんの考えが、狭くなったり、きびしいものになったりしないように、詩にたいしてひらいたものであるようにと自戒を込めて記しておきます。
---2008/11/07 10:05追記---
---2008/11/07 10:05追記---
※1文目の最初の()内を推敲しました。

---2008/11/08 00:17追記---

ボルカさん

吉本隆明が手許の本でこんなことを書いているのですが、

「韻律、撰択、転換、喩をみていけば、すべての文学表現について、よしあしがいえてしまいます。『言語にとって美とはなにか』のはじめに書いていますけど、……」(吉本隆明『詩人・評論家・作家のための言語論』)

詩の技術論をやろうとすると、これらをふまえなくてはならない(=これらに必ずしも沿う必要はないだろうけれど、ここまで明快かつ網羅的に要素を並べられると避けて考えることのほうがしんどいかもしれないような、というほどの意味ですが)のだろうか、と途方に暮れそうになりながら思いました。

『言語にとって美とはなにか』を未読なので読んでみようかと思っております。ただ、ぼくはこれまで、どうやら吉本隆明の影響下で考えてきただけなのではないかと思われるぶん、それと異なるところからの見方をし損ねてきた気がいたしております。
ですから、必ずしもふまえる必要はないとも思えますし、もし異なるところから技術論がいえるなら素晴らしいことだろうとも思っております。

横道に逸れますが「かがやかせるもの」という散文に端緒を書きましたが、こうした見方の外でも、詩のことばのありようを見ることはできないだろうか、というようなことをいまぐるぐると考えております。
---2008/11/08 00:35追記---

戻る Home
コメント更新ログ