番号は予感に眠れ/乾 加津也
たまさんのコメント
「群像」8月号に奥泉光と大友良英の対談があります。奥泉の800枚の長編「ビビビ・ビ・バップ」は群像連載時に読みましたが、けっこう面白かったです。連載を読みながら、この小説には(かなり緻密な設計書)があるに違いないと思ったのですが、奥泉は、コード進行だけを決めて書いた。と言います。つまりフリージャズの世界です。
大友はノイズミュージックです。ノイズミュージックといえば、詩の世界では、ねじめ正一の詩ですね。フリージャズとノイズミュージックの違いは、ぼくたちの現代詩と、ねじめのノイズ化された言語詩みたいなものです。
フリージャズの歴史と未来をふたりは語りますが、それはそのまま現代詩の未来ということです。
加津也さんのこのお作はフリージャズ(現代詩)なのですが、なぜかタイトルだけが、ノイズ化されています。ねじめのノイズ的ではないけれど、ぼくはこれはノイズだと思います。
フリーであれ、ノイズであれ、なんでもアリの世界は、もうそれを超えるものはないと、大友は言います。つまり、行き止まりだということです。ということは、(新しい現代詩)的なものはもう生まれない、ということになります。
なかなか、ぼくたちの世界も厳しいですね。
問題は個人の方向性ということでしょうか。


加津也さんの高揚感よくわかります。ぼくにとっても詩を書く確かな原動力と言えます。詩の可能性というのは、おそらく詩を書く(ぼく)という人間の可能性ではないかと思います。ぼく自身の、または加津也さんの言葉感覚の出土は、その可能性の一部が出土したということだと思います。
いったい、どんな(ぼく)がこの地平の下に埋もれているのか。それは正しく発掘なんですが、地平の下にはいくつもの地層があって、ぼくはいつも迷子状態です。そんな状態での創作はイディオムによって救われます。それはいくつもの地層をつなげるというか、言葉も含めた身体的な行動であって、現代詩的即興とも言えます。自分が持てるものをすべて動員して、ぼく自身のイディオムを求めているのでしょう。でもそれは永遠に出土することのない骨格とも言えます。
加津也さんのご返事にいつも期待してます^^ ありがとうございました。
---2016/08/19 10:17追記---