極私的朗読論冗説/室町
アラガイsさんのコメント

本来朗読されるべき詩は即興で語られるべきなのだ。というのが僕の考えです。文字に残してしまえば、これはもう楽譜に近い記号になるのですね。だからどちらかといえば絵に近づいている。声にして発せられるまでの間、言葉は沈黙のままうごいている。この動いている、というのが大事で、それは人それぞれの感性によってその詩の朗読は息を吹き返すこともあれば息を殺してしまうこともある。と思っているのです。これには優れた歌手や演奏家のようにたいへんな技術と感性が必要になってくる。しかし現在そこまで追求する詩人は皆無でしょう。石川セリが歌う谷川俊太郎氏の死んだ男の残したものは、という悲壮感漂う有名な歌がありますね。あの詩はどうしようもないくらい絶望感に充ちた歌詞なのですが、あの曲を感情的に、いかにも悲壮感を込めて歌っていた歌手がいましたが、聴き手には却って白々しく聞こえてくるのです。。そこを本家の石川セリはボサノバ調子でさりげなく歌っている。だからこそ世の中の不条理を感じて我々の耳には真実身で迫ってくるのですね。さすが武満徹の曲付けだなと思いました。

僕は朗読が怖ろしい。怖ろしくつまらないと思えるのはそういう観点からです。



追記
そうですね。ただ皆様に誤解してほしくないのは人前で個人のパフォーマンスを交えて他人の詩を朗読するのと自身の詩を読み上げるのは違う。ということは念頭においてほしい。自分の詩は自分自身が一番よく理解していますからね。そして学問として読み聞かせる朗読も別ものです。あそこにはただ読み聞かせるという目的だけで別に意図を含ませる必要もない。それならばAIの自動音声で読ませればいいじゃないか。という意見にもなるでしょうが、感情を排してという、これもつまらないでしょうね。私もおそらくは室町さんもただ朗読を否定しているわけではない。それによって詩が活かされているのか、その多くは間違ってるんじゃないか、という疑問を投げつけているのです。
とにかく人前での朗読は歌いあげるように難しい。様々な要素が絡まり加わる。そして難しいそれ故にこころの叫びは図上から射してくる啓示のように、誰にでも自然に開いてくれるものなのでしょうね。即興にこころ打たれるとはそういうことでしょう。

---2023/08/01 02:41追記---

---2023/08/01 05:26追記---