見ても見えんでもナンニモナイ 〜まどみちお「傑作」(『うふふ詩集』より)〜/白井明大
白井明大さんのコメント
石川和広さん
コメントありがとうございます。うれしいです。

>けれどなんだかしらんが自分にとってはよかったということのゆるぎなさがある。

そのとおりだと思います。わかるわからないが大事ではないと思う理由のひとつは、石川さんがおっしゃることだと思っております。

たとえば、マティスのへんてこな絵をみたとき(ダンスのシリーズです)、なんだこりゃ?と思いながらも、その絵の魅力にしだいに巻き込まれていきました。いまだに理由はよくわかりません。
なんだかしらんが、いい、ということを肯定してなんぼ、と思います。

同じように、

 鶏頭の十四五本もありぬべし

あるいは

 古池や蛙飛び込む水の音

など、これははたしてなんだろう??と、いい、とも、わるい、とも判然としないことばが、じぶんのなかに入り込んでくることがあります。そのとき「なんだかしらんが、なんかしらん」ということがゆるぎなくあるのです。

いいともわるいとも判ずることができないものを生成したい、とそれが詩を書くときの思いとしてじぶんのなかにあるようです。

目立つようなファインプレーではない、むしろなにというほどのこともない位置どりのようなところに、試合を左右するプレーが生まれている、とそうしたことはないでしょうか。

       *

すこし話がそれるかもしれませんが。学生時代にスカッシュというラケット競技をしていました。その引退間近のある試合のとき、コートだけが切り取られてどこかの空間へ移動でもしたかのように感じた瞬間がありました。じぶんがその空間の中心にいて、そのまわりを相手もボールも壁も床も天井も、ぐるぐると動いているような、そんなふしぎな感覚に入ったことがあります。ランニングハイとは違うことらしいのですが、集中力がたかまった時にそうしたことが起こるものなのだそうです。理由は定かではありません。
おそらく、外から試合をみていたら、ただ淡々とボールを打ち合うふたりがみえていただけかもしれません(たぶんそうだと思います。ですがもしかしたら、なにかふしぎなことがこのコートで起こっている、とそんなふうに感じた観戦者もなかにはあったかもしれません)。じぶんが経験できたのも、後にも先にもその試合のときだけでした。

何をどうとも言えない域というものが、ある気がしています。すくなくとも、ことばにもスポーツにもあるのではないかと思っております。これは理屈ではなく、です。

>芸術だって飯だってスポーツだって、身体をもった人間が感じるので、深いレベルでは、この作品が好き、これはまずいと判断しているのではないか。

石川さんがおっしゃるように、身体をもった人間が感じるのだということ、同感です。そしてその深いレベルで、もしかしたら、好き、まずいなどと同様に、なんとも判ずることができない何かがあるのではないか、そんなふうに思っております。

---2008/12/11 22:02追記---

K.SATOさん
そうかもしれません。
また、そうでないのかもしれません。
どこかはぐらかされるようなところのある詩のようにも感じようと思えば感じることのできる詩といえそうですし。
K.SATOさんのその読みがまた、まどさんの投げかけた詩のなぞなぞの、どこかにたどりつく秘密の通路の入り口になるのかもしれません。その通路をくぐってどこかへたどり着けるのは、入り口をみつけたK.SATOさんだからこそかも。
どこまで行っても詩は奥深くて、まどさんのみるその詩の眺めはどんなだろうと考えたり想像したりするのがまた楽しいことです。