読書について/深水遊脚
深水遊脚さんのコメント
新貝 常 さま
 ポイント、コメントありがとうございます。
>人生は小説よりも奇なり」と言われるのはまさに真実ですね。誰しも思うようにはいかないものでしょう
これは、フィクションの書き手としては、そう簡単に認めるわけにはいかないと私は考えます。リアリティーが欠けたままの状態で放置しなければフィクションも力を持つでしょう。書き手と読み手の実人生を動かすほどに。

 人生は常に思い通りにいかないものです。誰が悪いわけではなく。フィクションの世界で神になれるからといって、小さい自我を世界に押し付けたくはないから、ちゃんと実人生に向き合っていこうとは思っています。

蛾兆ボルカ さま
コメントありがとうございます。
ショーペンハウエルと岡本太郎、全然違うようにみえますが、習字についての考え方が似ているのが興味深いです。
 デカンショは凄い略しかたですね。たしかに侮れないです。私はカントとショーペンハウエルを少しかじったくらいですが、繰り返し読んで噛み締めたい書物です。魅力的な暴言も込みで。
 レイモンドカーバーの『デブ』の紹介、ありがとうございます。強烈な読書体験、羨ましいです。私のほうは『長距離走者の孤独』が歳を重ねるごとにゆっくり効いてきています。

梅昆布茶 さま
ポイント、コメントありがとうございます。
おっしゃること、まさにその通りだと思います。創造は全人格をかけてするもの。解釈も自分のすべてを総動員して行うものなのでしょう。一見詩や芸術と関係ないごく普通の経験でさえも、創造に必要なピースだったりします。

N.K. さま
 ポイント、コメントありがとうございます。
 調べものは別ですが、語り手を具体的な人間として意識するような本の読み方をする傾向が私にはあるようです。ちゃんと語り手の言葉を間違いなく受け取ることも、受け取った言葉について考えを巡らせることも、両方必要なのだと思います。また、一人の人間では受け取れる言葉もかぎりがあるので、同じ語り手に出会ったほかの人の話も頼りにして語り手に近づくこともできるかもしれません。
 借り物競争は、語り手についての雑多な知識を誰がどれだけしっているか、誰が正しく知っているかを競うゲームみたいなものとして書きました。ゲームには観客と審判がいます。競技者は自分の知識の豊富さを観客と審判にアピールしなければなりません。でもそんなことは、語り手と読み手(自分自身)との静かな対話、そしてその対話から得られた様々な実りとは無関係です。たとえゲームの効用として自分の限られた理解を克服できたとしても、ゲームに勝つことに囚われた精神に、語り手は心を閉ざすでしょう。このことを理性を重んじる人にも、既製の知識の一切を拒絶する人にも伝えたかった。それがこの散文を書き起こした動機でした。

闇猫さま
ポイント、コメントありがとうございます。他者と心が交差することは、エキサイティングですね。言葉の使い方も展開の仕方も、自分と違う部分があるから新鮮に感じる瞬間もあるのかもしれません。いいことだけではなく、怒りを覚えたり、退屈を感じることもありますが。人間と相対するときと同じように。


只野亜峰 さま
南 さやか さま
緋月 衣瑠香 さま
中之島公園力 さま
ポイントありがとうございます。