ヒューム「ベルグソンの芸術論」(5)/藤原 実
「ま」の字さんのコメント
 芸術とは「論理」「理屈」で「説明」するものではないし、説明的態度ではいい芸術は作れない。という考えがある。つまり芸術とは「論理」「理屈」「説明」と対立する要素としての「感覚」「感情」「(統一的に説明される前の)実感」などを重視する営みであり、ときに特異な感覚や実感を人為的に作り出そうとさえするものであると。私はそのような考えを一応は正しいと思っている者です。
 が、しかし、文学というのはまさにその「論理」「理屈」「説明」の道具たる「言葉」を素材とした芸術です。いわば呪われた素材による呪われた芸術。不幸になるに決まってる(笑)。このジャンルは他の芸術より自殺が多いような気がするのですが気のせいですかね。「音楽や彫刻の方がずっとラクだ」と唱えた人間も、歴史上一人二人じゃないだろう。と思います。
 しかし、音や形象ではなく、コトバを素材として選んだ以上、この素材の持つ2面性(思考・説明の具であるとともに感覚の具でもある)を受け入れざるを得ないだろう、と思います。できればこの背反すると見える2面を高度に両立あるいは統一した作品というのが理想なのでしょう。しかし現実に生み出される作品は、どちらかに重心がかかった、いわば「偏った」代物でしょう。そもそも、意味(説明、論理)あるいは感覚の片方のみによる言語表現というものは、厳密には存在しえないと私は思います(たとえば哲学や政治思想の論文においてさえ、我々の実感に訴える要素なしでは、論証という作業は成立しないのではないか)。だから、どうバランスを取るか=どう偏らせるか、を考えながら論理なら論理を、感覚なら感覚を、実感なら実感を、価値ある形に仕上げてゆく、という作業なのではないか。そんな気がしています。

 そして結局 「その“価値”ってなあ、なんだね?」 と呟くのです、、、

 ややしばらくして、「それは俺の場合、やっぱり“これいい”とか、“これ書きたい(書かねば)”と思う感覚や体験だな。もう一歩進めると、その“これ”という部分だな」と思うのでした。

 (最近は老いてしまい。“これ”を感じる力が落ちてしまいました。)
---2011/02/22 23:56追記---

---2011/02/22 23:58追記---

---2011/02/22 23:59追記---

---2011/02/23 00:00追記---