夏の雲/たもつ
「ま」の字さんのコメント
>教えた言葉を
>卵はすべて覚えたけれど
>口がなかったので
>話をすることはなかった

で提示された一つの謎(話の出来ない相手なのに、なぜ「全て覚えた」と分かるのか)。しかし、話ができなくても「覚えた」と分かるこの関係に、話者と卵との親密性がうかがえる。卵の形と「口がない」という表現がリンクし一種の可愛らしさが感じられ、そして親密なのに「話をすることはなかった」事から、一層話者と卵の親密性を感じさせる不思議さがある。幼児の、あるいは幼児の頃の記憶に残る“沈黙”。優しくも不思議な静謐さが支配している話者と卵。ひょっとして卵は話者の中にあるもう一つの心、あるいは本当の自分、また忘れられた幼児としての自分、か。などと思う。

 そんな風に読んでしまうと、

>わたしが生まれてから
>何度も見たその光景を

で、「わたし」と文字にして提示したことはドウなのだろうと思ってしまった。上記に示した私の勝手な思い入れに基づく感想ではありますが、少なくともこの箇所を読んで私(無名生)は「ああ、私と卵は別物だったのか」と感じた事。そして読み手としてのテンションがほんのわずかですが落ちた事は確かです。 

 勝手な感想です。お気を悪くされたらすいません。

追伸;『世界の果て』良かったと私は思います。AtoZ氏の非難していた最後が、私は良かったですね。型どおりだから陳腐とみるか、型の力を梃子として飛躍したとみるかで、評価が分かれるんでしょう。
 私としては、怒鳴りあいで(話者ではなく)父が先に冷静になった、というくだりが効いていて(事実読んでてハッとした)、その雰囲気のもとでの終結だったので、余韻の引く、一つの作品世界となったと思っています。
---2010/05/15 23:59追記---

---2010/05/18 22:54追記---
追記です。

 日を置いて再読し、「わたし」と入ったほうが良いと思うに至りました。入らないと、私がいつしか卵になる、てな変身譚みたいになってきて、そういう展開はちょっとマニアックというか、息苦しい。話者の特殊な心境でありすぎ、そういうものに付き合わされることで、読者は話者の心理的荒廃みたいなものを強く感じてしまい、それはこの詩の柔らかな雰囲気からいってそぐわない。私と別のものだが親密、親密だが別。不即不離といいますか、このような微妙な距離感と一体感をあらわすには、平易な表現で距離感を表出しておいた方がいいようです。それでこそ、いまさら後悔するでなく、けれど切り捨てるでない、話者にとって不可解なんだけどどこか既知で愛着ある、という雰囲気が出ると思いました。

 やはり初読での判断はムツカシイ。手探りで読むだけに神経質というか、一字一句に過敏になるし、また「もう1人の自分、とするならもっと卵と自分をくっつけるべきではないか」というような、他の可能性を見ない短絡的判断もでてくる。料理じゃないが、その詩(味)を(自分に)馴染ませる時間が必要か、と改めて思いました。 失礼しました。