流布する想いに/洗貝新
菊西 夕座さんのコメント
洗いにきましたよー、新さん、銭湯に入れさせてください。

なんだ、留守か。貝の桶はあるんだけど、中身のご主人がいない。おおかた、今日も雲の上を這うカタツムリにでもなっているんだろうな。でも、貝をオケ忘れていってしまうなんて、新さんにとっては雲の上が銭湯で、裸一貫で出かけていくべきナメクジの楽園なんだろうな。

では、勝手に湯に浸からせていただきますよ。お代は50円かと思いますが、もっと派手に湯銭をジャグジーへとばらまいておきます。なんせ、気前のよすぎる菊西湯座ですから。ポイントは無駄に貯めさせてもらいます。なんせ菊門から掘り当てた石油みたいに湯銭がじゃぶじゃぶわいてくるもんですから。次回はポイント払いになるかもしれませんけど。

おっとしかし、すでに先客が湯舟からあふれさせているのは、流布する、流布する、ブラジル産のチョコレートではないかい。まるでチョコレートのナイアガラの滝だい。河をじゃぶじゃぶわたっていきやがる。こいつは、イラン生まれの西加奈子ちゃんが、バレンタインデーという年に一回のチャンスを狙って、貯めに貯めた恋情を一気に爆発させて放出した溶岩にちがいない。といっても銭湯で派手に飛び散ったあとは、ヨチヨチ歩きで溶けたチョコレートがゆっくり黒いラインをひきながら、外へと外へと延びていくばかり。ひとまず溶岩みたいに町を一気にのみこむ恐れはないだろうが、流れを止めないことには私の湯銭もろとも運びさってしまうわい。ところで私の湯銭はチョコにのまれ、はや姿が見えん。

だれかこいつを止めないと、えらいことになっちゃうぞ。加奈子ちゃんの純粋な想いを、湯銭で汚したら、「加奈子は恋を金で買おうとした」なんていうフェイクニュースがどこからともなく噴出してしまう。ひとまず一時停止の「白線」を道路からひっぺがえして置いてみたけど、止まるわけねーえやい。すぐに真っ黒にぬりかえられちまったわい。おーいチョコレートよ、2車線道路をユルユルユルユル横切らねーでまってくれよーい。

道をわたるとき、「一瞬のタイミングを見逃すな そうでもなければ」左右から来る車に引き殺されちまう! うーい。どんどん車が行き交うから、ちっとも渡れるタイミングがつかめねーやーい。ああ、そうこうしている間も、チョコレートがカタツムリの速度で道をわたっていく。車におしぶつされても、足取りをとめることがない。なんて強い、加奈子ちゃんの一途な想いなんだろう! まるで雲の上でもわたっていくような覚悟がやどっている。

ところでそんな一途な想いに、みっともない悪魔の湯銭がまぎれてたら、世間に誤解されてしまう。あれは、盗人菊西が、人の目をぬすんでたらふく飲み込んだあと、菊門から放出させた汚れ切ってる悪銭なんだから。いくら菊西の胃袋で浄化(マネーロンダリング)されたとはいえ、その浄化作用は捏造であって、けっしてきれいな金ではないってことが、見抜かれちゃうに決まってる。だって加奈子ちゃんの純粋な恋心にもまれていたら、罪も嘘もなにもかも白状せずにはいられないんだから。

ところで、行きかう車の流れを見ていて思い出すのは、加奈子ちゃんがサーカス楽団に所属していたころ、空中ブランコで相棒のチアゴと息の合った見事な連携プレーを披露していたこと。チアゴのブランコが右から振り子のように左へと揺らめいたかと思うと、加奈子ちゃんのブランコが左から振り子のように右へと揺らめいて、ふたつのブランコが交差したり離れたりを繰り返し、そうしてすれちがう一瞬のタイミングをついて加奈子ちゃんはチアゴのブランコに飛び移り、足をブランコにひっかけた逆さまのチアゴの手に自らの手をかけ、ふたり一緒に左へ揺れもどったかと思うと、ふたたび右へ揺れ行くタイミングでもう一度、みずからのブランコに舞い戻るのだった。あのとき、ブラジル人のチアゴの手には母国産のチョコレートが握られていて、加奈子ちゃんが手をつかまえたタイミングでチョコレートをこっそり渡していたなんて、そのときは知りもしなかった。

あれから30年のときがたち、加奈子ちゃんがまだ結婚もせず一人でいることを知った菊西は、菊の花びらを一枚、一枚ともぎとって待ち続けているうちに、すっかり花びらがなくなり、菊も消え失せ、苗字が「西」だけになってしまったが、加奈子ちゃんの苗字もまた「西」であるだけに、これは奇跡の一致が起こるにちがいないと余計に想いを募らせ、加奈子ちゃんがいない、つまり「いぬ」に掛けて「犬」のぬいぐるみを抱きしめ、一度だけ「ワン」と吠えることを待ち続けていた。常ならぬ流れゆく時のなかで。

待ちくたびれて菊西の澱んだ心は一気に上昇し、爆弾となって地下へと下降する。まるで満たされぬ想いを浸した湯舟からたちのぼった水蒸気が上昇して雲となり、ゲリラ豪雨をふらせ、地下に痛みを沁み込ませるように。

加奈子ちゃんのサーカス楽団は、オーケストラと合流し、軽業と音楽が一体化したショーを大々的に披露して成功をおさめ、加奈子ちゃんの故郷のイランにあるイスファハンからも盛大な拍手がわきおこり、それが風にのって日本の富士まで運ばれたあと、富士からオケ(オーケストラ)に向けて紙吹雪が舞い落ちるのであった。菊西をのせて廻り続けた木馬よ、底知れぬ陽炎の輪を回転のうちにつくりだしたなら、いまこそその輪を立ち上げて火をつけてくれ、菊西が担うそのゆらめく炎の輪のなかへ、ライオンに乗った加奈子ちゃんがついに飛び込んでくるだろう!

ああそうだった。この50円玉の輪と炎の輪とは同じ運命を待つトポロジー。私は銭湯の風呂オケで股間を隠し、加奈子ちゃんはオーケストラのオケで人々を熱狂の渦につつみこむと、煙突から煙があがある。30年間も待って通い続けてた銭湯の椅子には菊西の温もりが沁み込み、その上にそっと風呂桶が逆さまにかぶせられる。ああ、今日もあの人はこなかった。

加奈子ちゃんはオケをバックにハイライトを迎えたサーカスの演技を終えると、しずかに汗をふいた。チアゴはサーカス小屋に終演の張り紙をした板を貼る。

「いつしか(30年の)記憶よ(こぼれおちた)栃の実よ (絶望の)金縛りに途切れはしない白線よ」

流布に流布が刷る情報のアニメがたれ流す愚鈍で悪趣味なイランへの着弾映像よ。

どうかこれ以上、加奈子ちゃんの生まれ故郷を傷つけないでくれ。

言葉がいまチョコレートを回収していく。記憶を塗り替えようとする言葉が。加奈子ちゃんの想いは新さんに届いたにちがいないが。そうして新さんは雲へわたり、空に希望の虹をかけようとしている。私の歪んだ妬みだけがどうも、「流布する想いに」から加奈子ちゃんを引きはがそうとして、30年たったいまも回転木馬からおりられないまま、いたずらに揺らめく願望成就の陽炎をたちのぼらせてしまったように思われる。これはただの湯気に過ぎなかった。

今日もいい湯をありがとうございました。新さん、50円玉を置いて帰ります。ワンコインのわんこが、いつか鳴くとよいですが。

「明日は天気に、な(めくじ)、あれ」




---2026/03/08 16:35追記---

---2026/03/08 16:37追記---