神様がやって来た/熊倉ミハイ
熊倉ミハイさんのコメント
現フォ、初めてで……こちらで返信という形になるんでしょうか?
まず、りつさん、コメントありがとうございます。神が、大きさを自由に変えられる、否、変えられていくものであるというのは、この詩では大切にして書いたように思います。また、祈る手に、瞬間的に宿ったり、そもそもカーテンを開く「手」が無ければ、この詩においての「神」を視認できない(詩が始まらない)、といった事もあるのかなと、思います。
「陽をつぶす」→「まばたき」という解釈は面白いですね…。一方、文字通り、ここではスクイーズのような小さい「陽」を指で握ってつぶす軽い感覚もあると思われます。これは、りつさんのおっしゃる「神や悪魔」というテーマの散見にも繋がりそうで、要は、私にとっては「神や悪魔」たちはすぐそこのおもちゃ箱にドサッと積まれている感覚で、安易に取り出しやすい(勿論「陽」も)。それこそ謎かけの謎のための依り代自体に「神や悪魔」を使うという逆転、代数Xとして現れてきやすいのかなと。
ただ、今直近20篇(ほぼ未公開のもの)をざっと見返して来ましたが、露骨に神や悪魔のようなものが出てくるのは5篇だけでした(それでも多い方ですかね?)。ワンパタ化は偶然かもしれません。また、どんな詩にも神性は宿るもののようにも思うので、解釈次第かもしれませんね。
長々と書きましたが、いわゆる「神や悪魔」といったものはやはり奥にある罫線のようなもので、でも媒体としての材質が良かったから選んでしまう。「肉体と精神」も、分かりやすい罫線で歪ませがいがありますね。
まだまだ、楽しんでいただけると幸いです。(気ままな作品は、気が向いたら書こうと思いますw)


洗貝さん、コメントありがとうございます。エログロナンセンスを、再度、自分にも世にも強く問いただす、ことが必要だと、胸に刻んで書いてゆきます。よろしくお願いいたします。