遥かな道?だけどよそこでやれよ理論/陽向(2躯-30~35)
おぼろんさんのコメント
陽向さんの詩をいくつか読ませていただいていて、その真摯さですとか、気もちがストレートに表されている表現に共感するのですが、この詩に限って言えば、意匠が表現より突出しているように感じられます。わたしも陽向さんの年齢のころには、2ちゃん語などを多用して、喧嘩腰の表現をしていましたが、今の時代にあっては、それは明らかに時代遅れです。若い世代は、すでにインターネットも信用しておらず、LINEなどの個別の世界に引きこもっているものと感じています。そこで、陽向さんのプロフィールを信じるのであれば、30代という若い世代に今一度インターネット上の表現を率いていってほしい、再生してほしいという思いがあります。ネット上の記事というのは、先だってまでわたしがそうした仕事をしていたように、ライターの書く素人の記事が占めています。また、AmazonやYoutubeなどのコメントは、わたしの推測ではほとんどバブル世代などの実生活で満たされている世代の人たちが書いているように思えるのです。インターネットはすでに若者のものではないのです。そこで生じるのは、若者の求めているのは本当は何なのか? という疑問です。わたしはそれは反逆や反抗ではなくて、「たしかな情報」「たしかな表現」であろう、と感じています。陽向さんのように感受性が豊かで、文極のようなひねた感受性にも堪え得るような精神を持っている人であれば、今いちど考えを曲げて「常識的な」表現を目指してみても良いのではないか? と思うのです。これは提案であって、批判ではありません。わたしは、陽向さんの未だ完成されていない思想よりは、そのリリカルな表現に期待するものです。B-Reviewなど、新しいサイトに活路を見出すのも良いと思います。B-Reviewがどれだけ現代的であるか、わたしはあまり知らないのですが、少なくともこのサイト(現代詩フォーラム)はすでに老人のサイトでしょう。そのなかで気を吐くことは、大変かも知れませんが、おおいに期待もするところなのです。個人的に(客観的な評価ではありません)陽向さんは、その感受性を信じて良いというふうに、わたしは感じています。つまり、思いのままに語れば良いと。そうなってくると、残る問題は「いかにして語るのか」「どう文字を綴るのか」という問題になってくるのです──レトリックという、文学においては非常につまらない問いが、面前に立ちふさがってくるのです。そこを、これからの陽向さんがどう解決していくのか、ということに興味を持ちます。これは、「いかにして商業ベースに乗るか」という問いと同じくらい、つまらない課題です。ですが、自分の信念と表現に凝り固まった老人にとっては、目を開かれるものになるでしょう。老人の批判はつまらないものとしてかわし、陽向さん自身が真に望むところの表現ができるように、今後の活躍に期待しております。これも老人のよしなしごとですが、インターネットをわたしはすでに老人の場だと感じているので、それでは世界があまりにも寂しいように思うものですから……。再度書きますが、批評としてではなく、感想として聞いていただければと存じます。老人の喧嘩を買うことで、精神を浪費されませんように。批評というのは、本来「批評屋」がすべきことです。わたしは創作の才能がないので批評をしますが、それは創作の高みに到達し得るものでは到底ないとも、感じています。──再度、単なるコメントとして書けば、この詩(と、後の投稿の「あの日の追憶」)は、「うまく自己矛盾をまとめたうえで表現されている」詩のように感じられます。わたしがイメージするのは、例えば乙一さんのような純文学とも見え、ライトノベルとも見えるような作品でしょうか。そのふっきれ具合は、傍から思うよりはよほど大変なことだろうと、想像します。ですが、出来ればその大変さを堅持してほしいと願っております。──長いコメント、失礼いたしました。