焙じ茶を飲む、向かいの空席
ふいに 誰か の気配があり…
在りし日の老師は
日々 南無アッバ を唱和した
目には見えない 誰か とは
――もしかしたら、お釈迦様?
――もしかしたら ....
翔子さんの筆から生まれた
その文字は、無邪気に駆けている。
その文字は、歓びを舞っている。
「空」
誰もが自らを空の器にして
忘我の瞬間を、求めている。
翔子さんの持つ
....
草茫々の只中を
分け入ってゆく…夜明け前
(突如の穴を、恐れつつ)
それは{ルビ完=まった}き暗闇に似て
清濁の水を震える両手の器に、揺らし
あわせ、呑む。
――我は信じる。
....
卵であることは、苦しい
孵化するには、
薄い殻を…破らねばならぬ
死者と語らうには、飲むことだ。
向かいの空席に
もう一つのお{ルビ猪口=ちょこ}を、置いて。
自分の頬が赤らむ頃に
あたかも体の透けた人がいるかのように
腹を割り、肝胆を晒すのだ。
....
今年は申年なので
翔子さんは願いをこめて、筆を持ち
半紙に大きく「申」と書いた。
翔子 さんが「申」の字を書くと
鼻筋の一本通った
何処か優しい
ほんものの「申」の顔になる。
― ....
風は密かに吹くだろう
人と人の間に
透明な橋は架かるだろう
この街の何処かで
濁った世間の最中にも
時折…虹はあらわれる
――千載一遇の<時>を求めて
今日も私は ....
自分の中に、経験が{ルビ溜=たま}ってくると
いよいよあなたと私に、別々の顔が現れる。
背が高いとか、低いとか
体が太いとか、細いとか
頭が良いとか、悪いとか
線を引くという行為の、 ....
今迄の僕は
ゴミ箱行きの恋文を
山ほど書いた。
けれども全てが徒労だと
一体誰に言い切れようか?
どうせなら
純粋花火の一粒を
無心に念じ…封じ込め
世界にひとつの手紙を書こう。
....
日常風景の只中に、立つ
そこを掘るべし。
――{ルビ足下=あしもと}に隠れた、天への通路。
*
(君の投げたボールは
君に返ってくるだろう)
*
昔々、葉蔭の下 ....
「一」という字の、地平を
我が胸に…刻む
「一」という字の、地平から
熱い湯気は…立ち昇る。
「一」という字の、念力で
切り拓かれる、明日。
いつの日か
ふり返った背後に
....
オランダのチューリップ畑の{ルビ畔=ほとり}に
浅い川は緩やかに流れて
カーブを描く辺りに
一人の風車は立ち
やがて赤と黄色の無数の{ルビ蕾=つぼみ}は
過ぎゆく風に身を傾げ
遠い風車 ....
法事の後に、故人を偲び
「献杯」してから口に注いだ{ルビ麦酒=ビール}により
みるみる僕の顔は真っ赤になり
吐き気をもよおし
頭痛の額に少々冷えた、手を添える。
そうして僕は平手で
白 ....
遥かな過去にも未来にも、二度と訪れない
今日という日に巡り逢う、隣の人の心象に
{ルビ閃=ひらめ}く火花を――灼きつける。
宇宙に灯るマッチの如き、我が生よ。
汝の心に
余白の小さい窓を、開けよ。
あの{ルビ古=いにしえ}の風の吹くように――
浅草のそば屋の座敷で、酒を飲む。
年の瀬の店内は無数の会話で、飽和して
向かいの席に数分前、若いふたりが坐った。
隣の机で、三人家族は静かに語らい
幼い息子はパパの{ルビ腿=もも}に、じゃ ....
君の相棒が16年着た
体を脱いで、天に昇った。
あまりにも静かに消える
湯気の後に――消えぬもの。
透き通ったビー玉の瞳
あの日のままの鳴き声
呼んでいる
いくども、いくども ....
どっかーん…!
太陽の砕けた花火の如く
あの日、きみと出逢った歌舞伎町の夜。
厚化粧のきみは
難聴のハンディをもろともせず
くらしっくをBGMにくるくる
地下の舞台で乱舞しなが ....
久しく忘れた地上の園を
人々が想い出すように
この世には
時折、虹があらわれる
府中の霊園の芝生に、僕は坐る
目の前の ✝遠藤家 の墓前に
炎と燃えるポインセチアの植木鉢と
グラスに日の射すワインを、置いて
初めて訪れた十五年前の夕暮れ
左右に生けた紅白の薔薇は
....
毎朝みる、幾人かの顔が
通り過ぎる朝の道の向こうから
杖をつき、背を丸め…近づいてくる
95歳のトメさんと、目が合う。
――あら、今週も会ったわねぇ
毎週火曜は、通院らしい。
毎週 ....
恋は昇ったり降りたりで、草臥れる。
恋は遠のいてゆくほどに、懐かしい。
太陽は、今も僕の胸に燃え盛り
{ルビ永遠=とわ}に手の届かない――幻
あの日、出逢いの風は吹き
互いの杯を交わしてから
ひとり…ふたり…銀河は渦巻いて
空白の{ルビ頁=ページ}に――僕等の明日はあらわれる
古びたティーポットの、口先から
白いゆげはしゅるるるる…
ぼくの唇からも
凍える誰かを暖める言葉が、たち昇るといい
万国旗は青い風にはたはた…揺れ
園児等が駆け回り、賑わう
秋の運動会。
染色体が人より一本多く
まだ歩かない周と、並んで坐る
パパの胸中を{ルビ過=よ}ぎる、問い。
――僕等はあわ ....
天に昇った恩師が好きだった
白のグラスワインを
向かいの空席に、置く。
あまたの想い出を巡らせ、僕は
白いゆげを昇らせる
珈琲カップを手許に、置く。
――そうして夢の対話は、始まっ ....
赤い羽根の天使はリュートを抱き
ふくやかな指を、無数の弦に滑らせる
世にも美しい音楽を探るように
誰もいない秋の浜辺に、立ち
吸いこまれそうな
青空
に手をのばす、僕の
頬を ぶおう! と
{ルビ嬲=なぶ}る――一陣の風
沖の方から
幾重もの波は打ち寄せ
波飛沫の散る、ひと時の ....
朝起きて、のびをして
飯を食い、厠に入り
玄関のドアを蹴っ飛ばし、
彼の一日は始まる。
日は昇り、やがて暮れゆく迄の間を働いて
単調なる繰り返しの、気怠さの…
口をへの字の忍耐の(時折 ....
前方の、遥かな明日へ――突き刺さる
線路の彼方に、富士は{ルビ聳=そび}えり
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