作者からのコメント
広田さん>教科書には、素晴らしい作品が載っていると俺はおもうのです。ただ、その教え方に問題があるとおもいます。
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あえて追記しておきたい
この種の文章は、別に目新しいものではない。反論も、やはり似たようなものになものが出ている。あえて書くまでもないことを、今、わざわざ書いたのは、苛立ちと、自戒の気持からである。反論は結構だが、反論の為の反論には何ら意味がないことを、論者は自覚するべきだ。そういうのを愉快犯という。
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明らかに人を不快にさせる書き方をしておいて、正当な批判だというのは、俺はおかしいとおもう。この文章に対して、異議があるのは分かるのですが、ならば「あなたは詩がどうなればいいとおもっているの?」 とおもう。
俺には、あの反論が「俺の文章を批判すること」を入り口にして、詩や、詩人を小ばかにしているものか、あるいは「詩は求められていない」というための理由付けとして書かれているとしか読めなかった。
そして、それは多分、誤読ではないとおもう。明らかに敵意むき出しな文章だったとおもうからだ。
そういうのを「反論のための反論」というのだ とおもう。
内容がどうかという問題ではなく、そういう手法そのものが「不毛」なのではないかとおもう。もっと云えば、「不毛」であると分かった上で、その「不毛なこと」をやらせるものは「悪意」だとおもう。そういう「悪意」を持って、詩を愛好している人々が集まっている場に来て、詩を語らないで欲しい。
これは批判ではなく、願いです。祈りに近いかも知れない。
ポエムであろうが、現代詩であろうが、自分が詩を読んだり、書いたりすること、その両方若しくは片方が好きなの人なれば、もっと別の書き方をするだろうとおもう。
「俺のおもう詩」が、唯一絶対の詩だとは云わない。そんなことは云えはしない。なぜなら「主観」だからだし、詩を定義するなんて不可能だとおもうからだ。「様々な詩」があっていいとおもっている。ただ「俺のおもう詩」が「売れない」という現状を寂しいとおもっていて、その原因を俺なりに考えて、なるだけ平明に書いたつもりだ。それだけのことだった。思慮が浅いとおもわれるならそれもいいが、俺はあんまし頭が良くないので、反論するにしても穏やかにやってくれないかなー とおもう。
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