作者からのコメント
>りつ様
コメントありがとうございます。
怒りは問題意識を深め、新たな展開を生み出し、自らの殻を破るきっかけになると思います。
怒りを『許す』『許さない』と言った許可の合否の問題ばかりではなく、もう少しスケールの大きい世の中を動かすエネルギーであり原動力のようなものとして捉え、ここでは表現しました。
確かに『怒り』と聞くと一見ネガティブなものに思えますね。同じ不満を抱えているどうしで心を打ち明けることで強い結びつきを得ることもある。例えばその時に結びついた二人は、対象の事物に対し『許さなかった』からこそ、共闘出来たのではないかと思うのです。怒りはポジティブになり得ると思います。
しかし仰る通り、矛盾や理不尽に対する妥協により人は歩を進めることがほとんどですね。この『歩をすすめる』ための原動力としてのみ怒りは有効なのだろうと思います。
---2024/11/24 17:44追記---
りつ様
いえいえ。怒りに固執して前に進めないようだと甘えがある。それは道徳や正義により天誅が必ず起き、起きなくてはいけないものであるという思い込みの世界にまだ甘えているのだと思います。しかし、その道徳を教えすり込んだのもまた世の中で、理不尽を許容して前進できるようになるには成長が必要だと思います。
私もそう言う意味では人より同義心が強く、苦労してきました。あらゆる矛盾理不尽に対し固執性があり、中々許せなかった。ナイーブだったと思いますし、今もそのナイーブさを抱え、決してそれを失いたくないとさえ思っている。しかし、それを甘えだと称える人だって、なにかしらの体制的な意味での勝ってきた道徳のようなものに対する甘えがあったりするものだと思います。それが『悪いことをやった人間を死刑にすることはよくない』や『非暴力』『人権思想』のような戦後以降の左翼的運動スローガンだったりもするのではないか? と。『非暴力』や『人権』を主張する人が、第一の被害者である人間に対する思いを踏み躙っていないか? と言うことも考える必要があるか、と。心に障害を抱えた方が、他人を殴った場合など、第一に本人が悪く、人権は殴られた人間にまず委ねるべきではないか? と。そう言うことに対し、被害者の一人として怒ってきました。私の例に関して言えば、私の兄は精神障害者ですが、私を幼い頃から痛め続け、兄の人権ばかりが守られるある種の狂った世界で生きてきたのです。そう言うことは神戸連続児童殺傷事件の加害者少年Aが弟を虐めていたと言うエピソードなどについても思うことです。
---2024/11/25 02:03追記---
ひだかたけし様
こんばんは! 深夜に起きて返信しております。
コメントありがとうございます。
21世紀に起きている問題は無害性の強要ではないかと私は思っています。
テレビやニュースを見ている。陰惨なニュースが流れ、世の中は本当に良くないことが起きてよくない人間が増えたと思い込まされる。ところが実際は犯罪発生率は減少し続け、自殺者が増え精神病院に駆け込む人は増え続けている。善良性ばかりが唱えられて、不良に生きる生き方とか、そうやってでも生きる生き方を教える大人がいるのだろうか? と。
そう言う面では、最後までネガティブなようで不良な悪態のような表現で終始していく歌舞伎で終えるラストは、中々笑えて良いとは思えませんか?
森田拓哉様
コメントありがとうございます。
比喩的な表現の面白さ見たいのにはいつも拘っております。
私の好きなジョンレノンは表現が鋭利になるごとに
「お前が好きだ」
のような直接性が増えて、比喩的なものの面白味を捨てていったと思っているのですが、そっちにはあまり行きたくないなあと。
人間という例えその一つの状態であろうと、その中を生き、そこに意味付けをして生きる。
そんな人生。人の生も悪くないですよね。
ただ、人の生って、絶対的なものではないよなと。これはヒューマニズム賛美でも、それはいつか悲劇にも変わるという意味も含んでおりますが。
---2024/11/25 15:49追記---
アラガイs様
人と人が争うということは無くならないと思います。
僕は人をいじめない人間を信じない
叩けば叩くほど、及び腰になり困惑する人がいたとして、それを叩くことで叩いている人間が健康になるとしたら、その輪を作ることで共闘の輪が出来て、それが大きな縁となり、仲間が出来るとしたら?
仲間にはそういう醜い面もある。勿論それなりに理由もあるでしょう。
しかしかつて日本が米国と闘ったような大義などはかけらも無い。
それは平和な時代が内ゲバを生んだと私は思っているのです。
戦争きたれと思う気持ちだってありますね。
イイネお礼:
atsuchan69様
アラガイs様
森田拓哉様
室町礼様
ひだかたけし様
りつ様
本田憲嵩様
ありがとうございます。
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