ポイントなしのコメント
[つかさ]
ご本人が「暴論」とか「不毛な代物」と書き、「そうした代物を公にした以上、あらゆる批判は甘んじて受けます。反論はしません」と宣言しまった以上、窪氏の文章は単なるマゾヒスティックな願望の発露であったとしか思えないのですが、それでも釣られたいと思います。
この文章で、私が引っかかった点がとりあえず2つありました。(本当はもっとあるのですが)
1 「詩を読まない奴は詩を書くな」という主張。
2 いい詩を書くために一番大事なことは、他人の詩を読むことだという主張。
窪氏が愚痴っている対象者は「特定の個人」ではないそうですが、そもそもどんな人を想定しているのでしょう。
他人の詩(おそらく現代詩)を読みもしないで「難しい」「キモイ」と言い、詩を書くことは簡単だと思い、「自分の気持ちや思いを書きたい」と主張している人のようです。窪氏はそういう人を否定している、と読めます。
しかし窪氏が本当に批判したいのは、そういうことではないはずです。他人の詩を読まなかろうが、詩を書くことが簡単だろうが、自分の気持ちを表現したかろうが、結局そのこと自体は批判するには当たらない。そんなのはどっちでもいいことです。ただ、その人の作品が読者にとって面白いかどうかのはずです。窪氏はどうやら、自分にとって面白くない詩があり、その面白くなさの原因が作者のそういった考え方にあると断定したがっています。そしてその断定の根拠は、「いい詩を書くために一番大事なことは、他人の詩を読むこと」だから、のようです。
「新しい空の発見」という、詩的表現についてのありふれた解説などから読み取れることは、詩的表現が「先達の詩業」の中にしかない、という考えです。しかしそれは嘘です。窪氏も書いているように、小説や音楽などの表現、その他日常の様々な場面に、詩的表現や詩的なるものは存在しています。さらに、ピアニストがピアノの練習をすることと、詩人が詩を読むことを同一のことだと主張していますが、詩が言語であるという特性上、詩を読まなくても詩的言語の訓練は常になされている、と私は主張します。
これだけ短くては反論にもなってない気はしますが、ともかく「詩を読まなくてもいい詩は書ける」ということは言っておきたいと思います。
もちろん、他人の詩を読んでも一緒だとか言うつもりはありません。私自身は詩を読むことが好きですし、参考にもしています。
ただ、窪氏が本当に言いたかったことは単に、「面白くない詩を書くな」ということなのです。それであれば納得できるのに、よくわからない根拠を出してしまっただけなのです。そして、「面白くない詩を書くな」と主張したいのであれば、窪氏にとってどういった作品がそういう詩であるのかを明示して語るべきだったのです。さらに「そう主張する自分の詩は面白い。理由はこうだから」とまで言えればかなりかっこよかったのですが、無様な逃げ道を自分で作って言い訳しているのはとても悲しいことです。
窪氏の主張に反論するには、実は一言で足りるのかも知れません。
膨大な他人の詩を読んではいるが、どうしようもなくつまらない詩を書いている人がいますよ。と。
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