ポイントなしのコメント
[森川マサハル]
「詩」という言葉が何らかの「記号」であるなら、例えばそれを「野球」という言葉に置き換えたとき 論旨がよりよくわかるような気がしました。例えば、ですよ。 プロ野球の野村監督を見ているような気がします。 (いや、なんとなくそんな理解の仕方もあっていいのかなと思いましたので。これ自体、詩に対する冒涜なのでしょうか。) 「野球に対して失礼だ」「自分にとって野球とはなにか」「自分に野球をやる資格はあるのか」 という姿勢はまさしく野村監督のそれ。それが彼の考える「野球道」なのだろう。その向き合い方。 一方、新庄、清原に対して監督はかなり手厳しい。「あれはタレントじゃ!」「茶髪、ピアス、けしからん」「野球をなめとる!」云々。苦笑いする新庄・清原が目に浮かぶ。 たしかにそういう「向き合い方」が良いという「野村的野球」のファンは沢山いるでしょう。野球とは何かみたいな。野球と詩を同列にするな、と叱られるかもしれませんが。 本題。 メッセージを伝えるために「詩」を使っちゃいけない、というところだけがどうしてもわからない。 「詩」はそんなもんじゃない、とはたして言えるのか。あらゆるものが複雑化する時代の中で、伝えたいことが「言葉」そのものを超えてしまっているとき、人は「詩」を伝達手段として使うこともあるのではないのかな。
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