ポイントなしのコメント
[非在の虹]
私は、蛙氏が言う「いわく・・」と迷妄に浸るだけの人間に過ぎないが、言葉による表現には多かれ少なかれ、「仲間内の」みという傾向がある。
まさしく蛙氏のおっしゃるとおりである。
しかし、日本の詩は「古今」も「新古今」も連歌、芭蕉の俳諧もすべて仲間内が自ずと洗練を要求し、成ったものだ。
そのことは否定しがたく、決して「忘れ去られてしまう。」ものではないことは、現在これらが古典として成立しているのを見ても明白なのである。
蛙氏が目指す生活詩こそ、発生は新しく、口語自由詩が出現した後のことだ。
つまり詩としての普遍性は保証されていない。
このことは、奇しくも東西の詩文化を見ても一致する。
蛙氏に言いたいのは、一部の詩を憎むあまり、私説を押し付け、虚偽を書かないで欲しいことだ。
蛙氏は私にとって言わば「仮想敵国」だが、生活詩を批判する作品を私は書いたことはない。
それと、作中後半、照れて前半の調子を崩さないで貰いたいものだ。
---2011/07/12 20:45追記---
ご質問及び反論にお答えしよう。
もともと舌足らずな文章で、蛙氏が理解しきれないのも無理はない。
箇条書きのポイントような文章であった。
>これは現代詩に関して書いたもので、俳句とか短歌とかについて書いたものではありません。この点大いなる前提の誤解があります(的外れの批判です)。
と、おっしゃっているが、私は、「言葉による表現」と書いているとおりだ。
そして、和歌も俳諧も詩の一形態である事も確かなことだ。
ごく限られた人々のサークルの中で、日本の詩心は鍛えられ、定型短詩として成立したのだ。
「現代詩」という口語自由詩にしても発生して100年もたっていないものを、簡単にその成否を言うのは間違いだろう。
>生活詩って何ですか???
「生活詩」は詩語ならぬ死語になったのだろう。
大正時代のプロレタリア詩から発生して、昭和の戦前にモダニズムと対立するように現れた詩。
蛙氏の今作の前半、2行ずつ数連にかかれた内容はまさに生活詩のマニフェストだ。
蛙氏が愛読していると言う山之口貘も生活詩と呼ばれた事がある。
>生活を題材にしている詩という意味ではすべての詩があなたのいう生活詩です。
その認識は正確ではない。
生活をモチーフとしない詩は数多くある。
むしろ生活を題材にした作品は、少数であり特殊と言っていいだろう。
もちろん、ホメーロスから石垣りんまで見渡して、である。
>つまり詩としての普遍性は保証されていない。
父母兄弟姉妹は詩に登場するが、「自らの」彼、彼女らを表現する事、それらへの愛を表現することは、先に言ったように、口語自由詩の発生の中で書かれ始めたものだ。
「イーリアス」においてヘレナは「妻」を描くために書かれたのではない。
確かに、詩の庶民大衆への普及が、そういうモチーフ、テーマを考えつかせたのだろう。
しかし語り継がれる時間がはなはだ短い。100年にもなっていないようでは、普遍というには心もとない。
>このことは、奇しくも東西の詩文化を見ても一致する。
もう少し説明しましょう。
詩もあらゆる芸術と同じで、時代が下るにつれて、特権階級の持ち物から、庶民化してゆく。
ロバート・ブライの意見は庶民派宣言であって、おそらく卑近なものをテーマに、またモチーフに、という詩学はまだまとまったものは書かれていない。それもまた歴史が浅いからだ。
アリストテレスが生活詩の詩学を書いているとは、時代的に考えずらい。
>自己の内面の開陳行為こそ普遍性などあり得ない。
「自己の内面の開陳」自由詩ではロマン派以降の考え方で、歴史がない。
したがって普遍性については、私もわからない。
「仮想敵国」など、冗談である。私の作品の正反対な事を書いているから、そんなことも言ってみたが、気に触ったら、申し訳ない事であった。
蛙氏に言いたいのは、そんな詩が好きなのはおかしい、とか芸術じゃないとか、もっと勉強しろ、ではない。
自分とはだえが合わない詩風を、非難するものではない。
このサイトは、あらゆる発言と主張が対等にあるべきもので、あるひとつの詩風が席巻すべきものではない。
詩の主張を戦わせるのは、正しい。しかし蛙氏の作品としての今回の主張は誹謗中傷であると、私は思う。
すくなくとも私はいかなる詩も、詩である限りは、敵としないだろう。
---2011/07/12 21:59追記---
あと一点。
今作の場合、後半の調子の変化は、たとえ作者の謙遜が書かせたにしても、前半のテンションを貫いて欲しかった。
---2011/07/14 04:03追記---
思い込みの強い文章である、という批判だが、思い込みは勿論ない。
こういう、他人(ひと)の家の木戸口でしゃべるという状況では、はしょってしゃべる部分もある。
しかし、必要な説明は行っている。
ということで、この議論は散文開示版に移動したいと思うが、蛙氏、如何?
もともとこの度の作品が、批評として書かれたとすれば、その伝播力、また散文という性質から客観的な議論が可能だっただろう。
しかし自由詩の形をとったがために、その誤謬に感情が加わり、まさに「現代詩」攻撃にやっき、かつ呆れ顔、という作品となったのだろう。
(これからの文章には、思い込みもあるかもしれない)
いったい蛙氏はどんな「現代詩」を読んだのだろう。
おそらく作品とも呼べない程度の、愚劣なものだったのだろう。
そしておそらく蛙氏は、そんな愚劣な作品しか書けない輩に彼自身の作品の批判をこうむったのであろう。
(思い込みはここまで)
私の考えでは、詩は、形式ではない、と考える。
また時代ではない、と考える。
詩は民族差をも越えるだろう。
私は庶民の哀感を聞くのは嫌いだが、それらの作品にも秀作がある事を知っている。
私は、蛙氏のように、嫌いな傾向の作品を否定しないだろう。
ただ、敬して遠ざけるのみである。
---2011/07/14 20:40追記---
質問に答えていない。との御批判であるが、質問と言っても、蛙氏の言葉は「何ですか?」の連続である。
蛙氏の言葉は、質問と言うより絶叫である。
これでは、語句解説で話が進展しようにも進展できない。
蛙氏と私の間には、詩をめぐる共通言語がないのでは?というのが私の結論だ。
となっては、おのおの第3者にも分かるよう散文を書くべきでは、と思ったわけだ。
さて、このたび蛙氏は読書の勧めを書いているが、これなど何の目的かさっぱりわからない。
素直な善意で言っているのなら、もう一度、私の文章を読まれたい。
私は、自分には肌の合わない作品にも秀作がある事を知っていると書いている。
その上で、再読再三できないものは仕方がない。
蛙氏は、私が石垣りんや吉野弘を読んだなら「宗旨がえ」をすると本当に思っているのだろうか?
この思考はまったく理解できない。
一から十まで、だれかれ問わず、彼らの詩を好くだろうと、確信しているのだろうか。
このような思想はファシズムにつながる、と思うがまあよそう。
私は、事ここにいたって、蛙氏の一部の詩に対する偏見は、どうしようもない形で脳内を跋扈していると知った。
わかった。蛙氏の偏見を解こうなどとは思うまい。
最後に、蛙氏の嫌う詩のタイトルか作者を教えてくれないか。
また、「こういう理由でここが良くない」と教えてくれたら、我々のやりとりも不毛とならずに、詩のサイトにふさわしい稚拙かも知れないが、真摯な対話となるのではないか。
戻る
編集