ポイントのコメント
[鏡文志]
泉のほとりで初めて自分の顔を見た人類が、そこに自分の顔を見てナルシズムだけでなく、自覚を持ったんじゃないかなあ。
誰のためにとか、なんのためにとか、先ず自分のためにかも知れないし、詩人と鑑賞者と分けて考える考え方も、鑑賞者はいつか表現者に変わるかも知れないし、目指すか目指さないか? 上手いか? 上手くないか? の違いでそれが選ばれるか選ばれないかの違いはあるけれど、そこまで選ばれた芸術家云々という考え方も厳密ではない気がします。
自覚するとか、自覚というのは表現者の一つのキーワードだと思ってます。視野がどれだけ広く見えているか? 多くの物事に対し、自覚があるか? 覚醒という言葉は少し抵抗がある。他人は一つの鏡でもあるわけだし、でも自分の顔を自分で直接見るという体験は人間を変えたと思ってるんですけど。
言葉より先に表現。言葉も一つの表現。考えていることに共感しました。
しかし、言葉は表現という全体の中の一部であって、その一部は全体を超えることはあり得るか? それはAI的な頭でっかちの身体性無視という在り方で超えるのか? また、超えるということに関しても、ハイクオリティハイレベルという考え方をどこまで表現において突き詰めるべきか? そこに表現の本質はあるだろうか? など、色々考えさせれれますね。
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