小説「料理とワイン」/緑茶塵
終電に間に合うわ」
「挨拶をしていきたいのですが」
私の上司は、初老のピアノ弾きをチラリと見ると「いいわ、先に言ってるわ」と言って店を出た。
初老の男性は私に近づいて「お気をつけて」とコートを取ってくれた。
「あなたの尊敬する人を、お聞きしてもよろしいですか?」
私がそうたずねると、初老の男性は微笑みながら「三人います」と答えた。
「三人?」
「妻と私の母です」
「もう一人は?」
初老の男性は、胸を張って答えた。
「私です」
私はちょっと眉を上げて、その後に笑った。
「またのご来店をお待ちしています」
初老の男性に見送られて、店を後にする。
酔っているので身体の中が熱かった。そのぶん風が冷たい。並んで歩く私の上司も、寒そうにしている。
「いいお店ですね」
「そうよ」
「終電間に合いませんね」
「そうね」
「タクシー、捕まりますかね」
「知らないわ」
「歩いて帰りますか?」
「まさか」
「タクシーで帰るわ」
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