『越境の衝動』 第四章/声が先か、風が先か/板谷みきょう
最初に動いたのは空気だった。
丘の反対側、
澄乃は口を開く準備だけをして、
立ち止まっていた。
風が来る。
春一番ではないが、
沈黙を正当化するには
強すぎる風だった。
澄乃が息を吐く直前、風が喉を撫でた。
声が、ずれる。
音になり損ねた何かが
風に混じって外へ出た。
それは言葉ではなく、
ただ「在る」という衝動だった。
同じ瞬間、吉だったものが足を止めた。
呼ばれた気がした。
名はなく、呼び声でもない。
それでも、
自分に向けられた揺れがあった。
澄乃は出ていった音を追いかけない。
追えば言葉になり、
再び沈黙を必要とするからだ。
名を失ったものは、
声を受け取る器になりうる。
その事実だけが、
二人を同じ季節へ押し出した。
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