人妻温泉旅館/atsuchan69
った。だが私は無理に握らせた。それが、旅館に泊まる客としての儀式のように思えたからだ。
坂道を下り、車に乗り込む。エンジン音が庭に残る二人の姿を遠ざける。波の音が耳に残り、私の胸は重く、しかしどこか清らかだった。
記憶の褥
街に戻ると、高層ビルの群れと雑踏が私を包む。書類と時計に追われる日々。けれども、海辺の家の記憶は色褪せず、車のトランクに眠る釣り道具に触れるたび甦る。
夜、布団に横たわると、障子越しに差し込む月光、波の低い音、遥の笑顔、七海の小さな手の感触が胸に残る。すべては夢と現実の境界にあるようで、記憶の褥として私を包んでいる。
誰にも言えない、心の奥に秘めた名前と場所。
海辺の一軒家は、もはや幻かもしれない。しかしその温もりだけは確かに、私の中で息づき続けている。
夜の港に静かに波音が響く。
私は車のハンドルに手を置き、胸に秘めた名前をそっとつぶやいた。
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