『春と修羅』における喪失のドラマについて/岡部淳太郎
されたとし子をおもふ」のだ。これは身近な者を喪った人間の感情としては実に素直なものだ。筆者も実の妹を(病死ではなく自死だが)喪った経験があるので、自分のことのようによくわかる。身近な者を喪った人の感情はある種のドラマティックな響きを持つが、それはある一点を越えると、ごくありきたりのところに落ち着くものだ。逆に言えば、そうした当たり前のところに落ち着かないと、人は喪失に耐えられないとも言える。『春と修羅』における「無声慟哭」「オホーツク挽歌」のパートはこの一巻の中心を成すと言っても過言ではないものであり、むしろ『春と修羅』とはこの二つのパート、すなわち妹としの死を中心に編まれたものであると言えるのかもしれない。その中で、「無声慟哭」「オホーツク挽歌」での賢治の喪失のドラマはいっそう苦しく、また感動的なものだ。それが『春と修羅』という一巻を特別なものにしている。
(2025年6月)
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