ホロウ・シカエルボク氏「喪失というものにかたちがあるとしたら」を読む/朧月夜
せたレスラーの<ロックアップ>が、自分さえも、相手さえも、また自分でも相手でもない存在さえも、打ちのめしていく……いや、そうだろうか? そこにあるのは、ひたすら<生きる>ということの様式美ではないのか? わたしは……あるいは、ここにホロウ・シカエルボク氏の弱さを見ても良い。「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」──レイモンド・チャンドラー。この言葉は、現代においては解きほぐすことが出来ないほどに、陳腐化してしまっているのです。
この詩人は、これからも宿命の街として紐づけられた「K」の街を疾走していくだろう。そこで、彼の精神は<街>という空間を疾走していくのか。それとも、<街というどこにもない名づけによってのみ存在する位相空間>において、魂の疾走を続けるのだろうか。埒もない……わたしは、そのどちらの事象/現象も等価なものだと思っているから……
ホロウ・シカエルボク氏「喪失というものにかたちがあるとしたら」
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