多作であること/岡部淳太郎
 
が詩の書き手として多作であるのは、以上のような理由からであるだろう。
 もう一つ、多作であることから来る効果がある。それはそのようにして詩を書くという行為が日常の中で当たり前になることで、日常と詩がイコールで結ばれ、味気ない日常がほんの少しだけ善きものであるように錯覚していられるということだ。この錯覚という感覚はわりと重要ではなかろうかと思う。どんなに詩を書いたところで、生きて食べて働いて経済活動の中に自らの存在が投げこまれているという事実の大きさは変らない。多作であり、そのために自らの日常の中における詩作の割合が増すことで生じる日常イコール詩であるような錯覚は、ある意味幸福な錯覚であろう。その
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