未完成協奏曲/メープルコート
 

 「私も手紙を書いてるのだけれどまだ書ききれないんだよ」
 「あの人は楽になったんだね、もう苦しまずに済むんだね」
 「あの人は私が生涯で愛したたった一人の人だった」
 
 「ああ、彼もそう言ってたよ。最期は眠るように安らかに逝っちまった」
 「すべては時代が悪かったんだ。けれども僕らは生きなきゃならない」
 
 なぜ、と聞こうとして老婆は口をつぐんだ。
 そして書きかけの手紙を綺麗に畳んで封筒に入れると、
 「これはあの人の墓前に。許されるのなら」
 弟は頷き、静かに封筒を受け取ると、もう一度彼方の海を見つめた。
 少しだけ風が出てきた。庭の草木がぼんやり揺れている。
  
 弟はゆっくりと深呼吸して、屋敷を後にした。
 この丘の上だけは空気が綺麗だ。
 弟の気持ちが少し軽くなった。
 これから本格的な夏がやってくるだろう。
 緑に囲まれた避暑地のようなこの丘の上でもう一度深く息を吸った。
 強い日差しが緑を透かして淡く潤んだ。
  



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