大岡信の評伝について/……とある蛙
 
した第三期の詩人たちを「蕩児の家系」において五〇年代の詩人として「感受性の祝祭」の時代として、詩の主題からの脱却を肯定的に評価した。 詩自体が主題となり、詩は手段では無く、対象とってなってゆく。詩は感受性の実体化といえるのでは無いか?大岡流に言えば「詩は想像性の形象化」といえるのかもしれない

※実際には谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」など必ずしもすべてが主題性から脱却したものだけでは無いが。
 
 それはさておき、本書で個人的に注目したのは大岡信の連句、連詩などの集団創作活動とその位置づけである。
 私自身俳諧の連歌などには大変興味があり、それに関連する書籍なども読んでいる。

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