春提灯と咳緋鯉/田中修子
 
 風のにおいがする、花の音がする。逃げてゆく春の背だ。
 だれかをこころの底から愛したことがあったかどうか、ふと、八重桜のうすひとひらに触れそうにして胸苦しくなるんです。あなたもです、私もです、お互いを鏡にし杖にし、道具にしてきたからこげなことになったんじゃなかろうかねェ。体に走る無数の春の夕闇の切り裂きから滲み出る。いつもなにかのせいにして、至らなさに目を伏せて、口元だけは笑わせてサ。いくつもいくつも大昔に投げて放ッたらかしにしておいた問いが、修正ペンでかすれた白をあちらこちらに引っ?いたみたいな雲の浮かぶ薄うい水色の空から投げ返されてきた。八重桜の提灯が、昼間っから鮮やかに照らす。
 ひと
[次のページ]
戻る   Point(11)