ドジョウの話/道草次郎
 


そうやって、何か大事なものが循環のなかへと再びとけこんでゆくことは、ぼくには何か途方もなく善いことのような気がしてならない。
たぶんそれは錯覚に違いないけれど、ぼくにとってその錯覚はとても巨きな祝福なのである。

どんな詩にも、それに相応しいじゅうぶんな素晴らしさがあるのではないか。

そして記された詩は、いったん作者の手をはなれたらもはや誰のものでもないのではないか。

そういう見方、そんなほとんど楽観的ともいえる態度は、本当は馬鹿らしいのかもしれない。
しかし、こんにちのぼくをここまで押してきてくれたのは、どんな時だって根拠のない楽観性だった。


こちら側とあちら側の不器用な握手。詩に、ふんだんにこの心を預けたい。
今はただ、そんな風に思いたいのだ。



ぼくとあなたが今この瞬間を同時に生きているのなら、さらに孤独であるとするならば、尚更、きっと全ての詩は優しく寄り添ってくれるはずだ。




*おらち=北信濃の方言で「私の家」という意味








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