けれども難しいことはない/万願寺
 
あこがれてた人があったり、きにいらない賛辞があったり、家までの帰り方を忘れるのなんてずいぶん簡単だった。寝不足のせいで胸がどきどきするの、はじめてのバイトの面接の前みたいだったよね。あなたもずいぶんともう、おちついて商談なんかお出来になるようになったでしょう。お父様と違って立派で。立派で、偉くて、褒められたいと思っていたけど、こんなことわざわざ褒めるほどのことでもないみたい。寝ても寝ても眠れないのは、抱きしめてくれる夜がいないからみたい。机の下でひらいた女の子がよく折るあの手紙のやつ、ひらいてみたらもうずっと昔に亡くした苛つきみたいのが入ってた。それって大人になる時捨てたやつだ。ねえ、みんなが優しさを持てば世界は変わると思う? 程度問題。優しさなんてとっくにみんなが持っている、なんて知れたことを、知った風情で。僕の優しさが足りたなら、あのビルのあの窓の、直進してきて落ちていった鳩の、その生きた痕をぬぐってやりたかった。
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