音楽人生/やまうちあつし
一人の生徒がピアノの前で押し黙っている。さきほどから同じ姿勢のままで、身動きをしない。時折顔をぼりぼり掻いたり、腕時計にちらりと目をやったりはするばかりで、鍵盤に触れる様子は全くない。
音楽教師は困ってしまった。合唱コンクールの伴奏者を決めるため何人かの生徒に試奏をさせようと残したものの、一人の生徒がさしたる理由も言わぬまま固まってしまったのだ。具合が悪いのか、とか、やりたくないのか、とか言葉をかけてみても、一向に答えない。かといってその場を立ち去るわけでもなく、ピアノの前に大人しく座っている。伴奏者候補の中でこの生徒は最もピアノ歴が長く、演奏も熟練しているはずだった。いくつかの大きなコンクー
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