海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
 
感じるのではないだろうか。
 言葉は、響きと意味と流れとリズムがそれぞれ分離されずに融合してあるものであり、そのような融合のままに相手に手渡されるとき、そこでは相手が言葉を所有し、相手と言葉の間の平坦な対話が生じるのである。だが、海埜は、そのように本来なら融合してあるであろうところの響きや意味や流れやリズムを初めから分離して相手に手渡す。響きは響きとして際立ち、意味もその不明性により異物と化し、流れもまた順当にはいかず、リズムも不規則なものとなる。そのようにして海埜の作品と読者の間には滑らかな対話が生じず、一方で言葉は読者から遠く隔たり、他方で言葉はそれそのものとして読者の懐に突き刺さる。
 
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