海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
 
に、読者に対して近すぎる接近も行ってはいないだろうか。例えば先に挙げた「そしゃくのすすんだかんたい」は、読者による適度な距離化をすりぬけることで、読者にそのありのままの姿で襲ってこないだろうか。読者はそのようなコードを外れた言葉に対して無防備である。適切な所有のすべを知らないのである。海埜の言葉はそのような無防備さを突いてきて、所有するよりももっと近いところへと読者に迫ってこないだろうか。それは、読者による言葉の所有に先立って、読者の内部へと、その同一性の中へとも突き刺さる「他なるもの」であり、読者はそれが自己の内側へと不意に襲ってくるのを感じるだろうし、その他なるものとの近距離での交響を強く感じ
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