海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
 
、そこでは読者は詩行に対して「隔たり」を感じるのである。「でんぶんはそらからふって」と書かれてあるとき、「でんぶん」はその響きだけが妙に拡大され物質化されて、意味伝達の媒体となることを拒否しているかのようである。「伝聞」と書かれたときに比べて、その響きもどこかすぐにもぐりこんでこないものとして遠いものと感じられるし、その意味も漢字への変換を介しなければならないほど遠いものである。読者は海埜の詩行を所有することができない。所有するだけの扱いやすさがないし、所有するだけの近さがないからである。

祭りのきれたあきないだった
ひよこたちのほうりなげ
がらすのはこにしまおうか
まだみぬおんなにう
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