海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
、そもそも意味と不可分なものである。言葉が記号であるとして、記号と意味内容を分離するのは、言葉の素の受容の仕方ではない。言葉は響きと意味と「共に」、響きと意味「それ自体として」与えられるわけであり、そのように受容されるのである。
ところが、海埜は、そのような言葉の滑らかな受容を妨げようとする。通常漢字表記されるような部分について、読者は当然漢字表記を予想するわけであり、その漢字表記において、その言葉の響きと意味は平坦なフィールドで滑らかに受容されるのである。そのとき、読者は詩行を所有しているといえるだろう。ところが、海埜は、ひらがな表記によって響きをより一層独立させ、意味に対して距離を作り、そ
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