海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
ちをあけ、あたしはとてもとりをまっていた、
(「雁信」)
だが、そのような「読者が作品を所有する」という安定した距離感が成立していない作品群として、海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房)を採り上げることにする。海埜の作品に特徴的なのは、まず本来なら漢字で表されるべきところをひらがなを用いて表している点である。読者はここでつまずきを感じるだろう。「そしゃくのすすんだかんたい」とあるが、「そしゃく」はたぶん「咀嚼」だろうな、「かんたい」は「艦隊」なのか「歓待」なのか、いずれかなのだろう、などと、ひらがなを音から意味へと変換する必要性が出てくるのである。言葉はそれ自身として、そ
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