atsuchan69「首のないM」について/春日線香
 
ないでしょう。空白によってそこに夢見る余地が生まれ、「M」は作品の中で謎めいた存在感を獲得するのです。

記号に空白を読み、そこに意味を見出すこと。空白に意味を見出すのは不毛で絶望的な試みです。しかしながら、読者はどうしても空白に意味を読み取らざるをえない。牽強付会を許してもらえるなら、ここにピュグマリオン神話を重ねてもいいでしょう。ただの記号であった「M」は、首のない人形であるからこそ、一度だけの奇跡を詩の中で「ずっとずっと」続けるのです。「M」が手を振ることに格段意味なんてないのかもしれない、でも我々は読み取ってしまう。もはや「ボク」なんてものはこの「M」を導き出すための道具でしかありません。さて、「M」と「ボク」のどちらが本当の道具なのでしょうか。

もっといえば、詩そのもの、いや言葉・記号がそうした道具なのです。記号でしかないそれに意味を見出す、絶対に届かない「なにか」に向かってそれでも手を振り、時に振り返される。ことさら力を入れて意識することでもないのですが、こういうことをたまには思い出してみてもいいかもしれません。
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