濡れる水門/五十嵐 敬生
一九八七年八月五日、暗い森を抜けでるとそこは水門だった。水門は二重の柵に囲まれていた。水門を見つめているうちに私は携えていたノートブックとペンを川に投げ捨てていた。呼吸が乱れ歩行に苦しさが増す。私は柵の裂け目から奥を覗きこんだ。樹木と草の音……。柵は低かった。私は黒いバッグを柵の下に静かに置きそっとのりこえようとした。両足が地上から離れのりこえようとした一瞬、私は醒めた眠りに入っていった。外界の音が遠く去り、全身は柔らかな快い声に包まれていた。眠りの中でも柵の奥の闇のような見えない言葉がゆっくり流れる。
失われた「汝」の記憶……。
右足が地上に着く瞬間、小雨が降りはじめた。私は顔を流れる小雨の感触に酔いながら次の柵の前に佇み、濡れる水門を見つめていた。
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