【HHM参加作品】「yo-yo「紙のおじいちゃん」について」/葉leaf
 
、このような両義性による読者の惑乱は、一時に起こるのではなく、適切な遅れを伴ってやってくる。初め、人間が紙になることはネガティブだった。だが後になってポジティブな面も見えてくる。その間に、記述による時間の集積があるのである。
 yo-yoは、人間が紙になるという暴力の劇を生み出す際にも、その前後の時間を厚く記述することで、何らかの筋道をつけ、時間の厚みのもとでその劇の効果を強めた。一方で、人間が紙になることの両義性についても、それが鋭く両義的になるまでに十分な時間を置き、読者を多義性の中に十分漂わせたうえで両義性の針を突き立てた。確かに、詩は規範逸脱の祝祭かもしれない。だが、yo-yoの手法は、あくまで秩序をうまく操ることにより、その祝祭の効果を最大限引き出すものだったのだ。



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