ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
 
れでも、その孤独に躁人への感謝なしに、どうして孤独は癒されるだろう。そして話していくうちにそれが認知の歪みとわかった。けれども、認知行動療法がうまくいかない。それはそのまま歪んでいる。それも結局認知の歪みのせいか、上手くいかないようにしか思えないし、心掛けを思い出す前に強く反応してしまうのだ。
だからその歪み自体を結局周りに理解してもらうしかないとも思った。
けれどもそこでまた僕の慢性的な申し訳なさというのは悪化してしまう。理解してもらうことそれ自体には達成の価値を感じるが、結局それは僕という負債を諦めてもらい、受け入れてもらうことでしかない。それは恥ずかしい、悔しい、申し訳ないことだ。感謝は
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