オマージュ?/Giton
 
、1925.12.20.
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だから、賢治は、世の多くの人のように、「詩」を、あるいは「詩人」を志して詩作したことは、──少なくも初期においては──なかったのだと思う。
賢治にとって、それは、‘自然’が彼の身体を通して溢れさせてくる何ものかだったのだ。
彼が学生時代、盛岡で下宿生活を始める弟に宛てて書いた手紙は、そうして意図せず溢れ出た‘詩情’に彩られていた:
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「 玉井さんの家から下の橋の方に歩いて見給へ。
  〔‥‥〕君はそこで岩手公園の美しい石垣を見るだらう。
  その石垣の蔦の立派なことは、どんな季節でも、いつまで見ても、あきることはないだらう。
  そしてそ
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