大切な人をなくしたあともつよくいきたひとの作品 茨木のり子とテッド・ヒューズから/イダヅカマコト
なることはなく、ずっとその中でおもりのようにかさなっていくのではないかと思わされます。
茨木のり子の『汲む』がいい例なのですが、茨木のり子もテッド・ヒューズも作品の中で「わたし」という言葉はそのまま書き手自身ではなく、逆に書き手との距離を感じさせる人でした。愛する人への手紙は、社会の中で生きる自分をつくるために記された自分のための作品で、ぐうぜん、手紙のかたちになったように思えます。そしてどんなに話しても届かない大切な人の前で背筋をのばした自分を見せることになったように感じます。この行為は意地なのでしょうか。甘えなのでしょうか。私はまだわからないでいます。
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