文学的なものと哲学的なもの/kaz.
 
できなかった「私」は、再び語れるようになり、破壊可能な解釈の建築物と化してしまう。

文学的なもの、哲学的なもの、それからまた文学的なものへと、水準が高められるうちに、中心はずらされ、しかしまた出現する。哲学的なものは、解釈にとっての中心をいくらでも用意してはくれるが、文学的なものが再び中心を拒絶し、解釈を具体性へと分散させてしまう。文学的なものと哲学的なものを行き来しているうちに、円の中心にあったはずのものは忘れ去られていく。
戻る   Point(3)