豊かな時代における詩/番田 
 
歌やゲーム、料理などでも同じようなとらえ方ができるのだと思う。ビールやコーラなどにおいては原材料がよくわからないぐらいにすりつぶされていたりするが、味噌汁やタピオカミルクなどは幾分材料だとおもえる具材の断片がスープの上に浮かんでいる。たとえばテトリスは抽象的な物体が落ちてくるゲームだが、スーパーマリオやファイナルファンタジーはとても具象的な世界観を提示している。そんなことはどうでもいい。ここで言いたいのは、人が書いている詩と呼ばれる表現に可能性があるかどうかということだ。しかし、生きている我々の生活はあまりにもつまらない社会や、人間関係と呼ばなければならない虚構に支配されていて、そんなことを考える余裕のカケラも残されてはいない。いつの時代も結果だけが亡骸のように、我々の目の前には残されてきた。ここのフォーラムに出入りする人々も、何らかの縁があってこの場所に骨のようなものを残していくのかもしれない。


戻る   Point(2)