酒呑説話。/愛心
 
逃げ出そうと。

視線を外したその刹那

くつり。

聞き間違えでなければ。
彼が喉の奥で笑った。

予想外の反応。
首だけで彼を見上げる。

『嵐の前触れ。
暑い夏の雨雲が旨いのだ』


酔った男のそれに似た、艶のある低い声。

微かに上がった口角。
白い爪に絡めた、霞む、澱んだ黒。
朱く染まった荘厳な姿態。

見惚れるぼくの、開いた口に
運ばれる雨雲。白い爪、ひやり。
触れた瞬間、それは唇を濡らした。

雨、あめ、飴。
癖のあるそれ。なんて、甘い。

夕焼けに染まるぼくの頬、同じ。
龍が満足気に微笑する。


あ、嗚呼、嗚呼。


歪む視界。気づいてしまった。

明日にはきっと、消えるのだ。
消えてしまう。

澱みが移ってしまった
尾、髭の先、角の先端。
空に溶けて、もう見えない。

嗚呼、嗚呼。

ぼくと対照的に、龍が笑う。

くつり。


『扨、それでは。もう一献』



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