田村隆一論??フィクションの危険/葉leaf
して、田村の詩がそういうものであるとして、なされなければならない。第三に、想像とは勝手気ままな想像ではなく、作品やそのコンテクストによって方向性を指定されたものである。
子供が積み木を車だと見立ててごっこ遊びをする、そのとき、子供は、現実の積み木をそのものとして経験すると同時に、それを非現実の車だと信じて、しかも自らそれを車だと指定して、積み木について非現実の経験をし、その二つの経験を想像の中で重ね合わせる。そのごっこ遊びと同じことを、フィクションの受け手は行っているのである。
性器と
乳房を
つなぐものが
脚だとしたら
その脚によって
はじめて
彼女の顔は
創造されるのだ
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