みんな眠ってしまった/はるな
 
ゃが好きだったから特には反論しなかったけれど、でも、たぶん父なら言うだろう。「かぼちゃはかぼちゃだ。でもおまえに食べられたかぼちゃはおまえになる。もしもお前がかぼちゃに食べられてしまうなら、そのときはおまえはかぼちゃになるだろう。」

すてきなものはみんな男の子から教えてもらった。
「わたしが」教えてもらったのだ。
それらはゆっくりわたし自身になるだろう。遅いか早いかだけの違いなら、そんなにおそれることもない。
いまは、アデルを聞いている。アデルはアデルだ。でもアデルの歌う声もまた、わたしがそれを理解すればわたしになるかもしれない。”Jai guru de va om”もいつかは言えるようになるかもしれないのと同じことだ。

英語が苦手な夫は”Sometimes it lasts in love but sometimes it hurts instead.”と聞こえてもびくびくしない。わたしもいつかはそれを恐れずにいたいなと思う。
ともあれみんなもう眠ってしまった。世界は扉の向こうで静かにしている。


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