リュウグウノツカイ/済谷川蛍
上手いね」と驚きと感動に満ちた様子でささやきあった。歌い終わると会場で大きな拍手と掛け声があがり、私もガラスコップから手を離して彼女を礼賛した。どうやらアンコールのようだったが、私は立ちあがり、ホテルを出ることにした。
雨は止んでいたが、夜の海峡は憂愁に満ちていた。街道を水しぶきをあげて数秒ごとに走り去っていく車の1台1台が、旅愁を振り撒きながら消えていく意思を持った儚い星々に見えた。駐車場で車のドアを開けようとしたとき、あっと声を出して本を忘れたことに気がついた。ホテルの本棚に自分の本を置いた説明をするのはめんどうだと思い、本を取り戻すことを諦めた。もしかすると、いつかオーナーや従業員が本の存在に気がつき、うら表紙に寄贈の判が押されるかもしれない。別にそれでも構わなかった。自分の車が家路を急ぐ星の列に連なったとき、竜宮城が過去の時間の中へ遠ざかっていくのを感じた。
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