「春と修羅」についての短い散文/……とある蛙
 
光に照らされています。

 つまり、明と暗の二元性を持つ己の理想を体現すべく生きるための一里塚として、修羅と規定して表現したものと考えられます。

修羅としての自覚、修羅からの脱皮により本当の意味での幸せがおとずれる。そう信じて生きて行くが脱皮できない今の己が修羅なのだ。 っとこの時代の賢治は思っていたのではないかと感じられます。

(結論)
 だからなんなのさという人がいると思いますが、賢治が単純な道徳による自己犠牲の精神をもっていたなどという見解は全く薄っぺらな解釈だということです。→そこから軍国主義を肯定しうる等とする見解もあるようです。
 世にあるすべての事柄が関連した因果の連鎖の中にあるという理解からは自分の幸せは孤立した欲望の満足ではないということなのです。
 欲望の満足はすべて瞬間的な喜びでしかなく、すぐ充足感がなくなります。結局すべての人が充足して幸福である状態こそが賢治にとっての永続的幸せなのだということです。

特に自分がこのような考えを持っているというのではありませんが(笑)、想像して書いてみました。 


 
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