【批評祭参加作品】主観という自家薬籠中の物/石川敬大
出言語をあやつる術を獲得したのではないのだろうか。
ここからは、わたしの妄想寸劇だと笑って許していただきたい。そのうえでの話として、冒頭の、この作品集は詩集ではなくて小説なのではないかという疑念に対しての仮説なのだが、川上にとって、詩であるとか小説であるとかのボーダーはがんらい存在せず、作者の内部でかたちをなしてくる物語もまた、主観という自家薬籠中の物であるならば、言語抽出時における表出言語の違いによって、あるいは無意識の選定・選別によって詩的になり、または小説に近づくということなのだろうか。それにしても川上の詩と小説の違いは依然不明のままなのだけれど、この論考は本書のどこが、なぜ詩集であるのかを検証することが主旨だったので、小説との違いはまた別の機会に譲りたいと思う。
また、わたしがここまで論じ指摘した事柄に目をむけて、価値を与えて、中原中也賞の選考委員たちが授賞対象作品としたのであったのなら、わたしはいまのところ肯うしか手がない。
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