【批評祭参加作品】書くということについて/kaz.
可視の光線の存在は無視されている。このような知覚によって得られるものは、イマージュとしてである。イマージュが心像の枠を離れようとするとき、イマージュはその重さに耐え切れず、破裂するかもしれない。けれども、その名自体は、私たちがイメージと呼ぶものにならって、付けられたに等しい。私たちが知覚するものはイマージュであり、既に物質の性格を失っている。しかし、書くこと、あるいは描くことは、空白のイマージュから、私の内のイマージュを物質として展開することを可能にする。私たちが作品から得るものはイマージュに他ならない、しかしそれらを描く筆の尖端は、極めて直接的な形で、物質を空白のイマージュへと導入するのだ。繰り
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